ある追悼と「老人と海」

正午前、

高岡を代表するラーメン店「翔龍」に行きました。

いつもはごった返す時間帯なのに、なぜか車がありません。

休業でした。

何か変だな。そう思って、マスターの浅野昭次さんに電話しました。

しばらく鳴らして、出たのは奥さんでした。

「マスターは亡くなりました。あまりに突然のことで、私も現実かどうか、分からない状況です」。

え、私は絶句しました。

自転車で帰る途中、用水路に落ちたそうです。

浅野さんと出会ったのは、おととしの春です。

市長選の時に、ラーメン店の近くの街頭演説をしていると、ホタテと缶コーヒーを差し入れしてくれました。

私を応援していると話す眼差しは本気でした。

「高岡を変えるために、当選してもらいたい」。

その後も、私の集会に頻繁に出席なさっています。

閉鎖的な街をどのようにして活気づけるか。

浅野さんは必死に考えていました。

「市長選で負けたら、出町さんはもう東京に帰ると思っていた。残ってくれて嬉しいよ。」

2人で酒を飲み交わしたりして、高岡の未来について語りました。

「ずっと友達でいようね」。

そう言ってくれました。

私は38年ぶりに帰郷し、市長選に出馬しましたが、

よそ者扱いでした。そんな中、浅野さんの温かい想いは胸に染みました。

また、87歳のうちの母親についても親しくしていただき、

母親を食事に連れて行ってくれたりしました。

ある意味、家族ぐるみのお付き合いだったのです。

母は浅野さんのカッコよさにほれ込み、「こんなすごい人に会ったことはない」。

母曰く、「マスターは『老人と海』の老人みたい」。

「老人と海」とはヘミングウェイの代表作。確かに浅野さんは似ています。

母は最近、この本を購入し、読んでいました。

浅野さんは北海道猿払村出身です。ホタテで有名な村。

そこで生まれ育ち、お父さんは漁業をやっていました。

奥さんと知り合い、高岡に来ました。

それから始めたラーメン店。高岡で屈指の売り上げを誇っています。

「自分は、高岡では『よそ者』。でも、自分を育ててくれた高岡に恩返しをしたい」。

そんな話を何度も聞きました。

ある時、私が子ども食堂の手伝いをしていることから、

浅野さんは「自分も子ども食堂に何かをしたい」と言って、我が家に来ました。

その後、オタヤこども食堂を主催する高澤さんと田辺さんを紹介。

すると、300食のチャーシュー丼を無償提供してくれました。

戦後の混乱期、父親が子どもたちに食料を分け与えていtことを思い出し、子ども食堂のお手伝いをしたいと思ったそうです。

「高岡に恩返ししたい」。

閉鎖的な高岡で、生き抜いた浅野さん。

なんとしても、高岡を元気にしたいという思いを持ち続けられました。

翔龍に勤めた人が高岡で次々にラーメン店を出しています。

浅野スピリッツは、高岡で広まりつつあるのです。

私は浅野さんの思いを胸に刻んで政治活動します。

以前、私が書いたブログを添付します。

読んでいただければ幸いです。

猿払村の奇跡と人気ラーメン店 「高岡発ニッポン再興」その14