”高岡愛”で「開かれた高岡」を体現 能作会長

私が東京のテレビ局にいたころから、親しくお付き合いさせていただいてる経営者は能作克治さんです。

その後、私は、高岡市で政治家となってからも、能作さんとのお付き合いさせていただいています。

ありがとうございます。

 

この3月、社長を退任なさり、会長に就任なさいました。

社長在任期間はおよそ20年。この間、社員15倍、見学者300倍、さらに売上も10倍に。

まさにカリスマ経営者として

全国的にも知れ渡っています、長い間、お疲れ様です。

新社長に就任なさるのは、娘の千春さんです。

能作さんはよく私にこんな話をしていました。

「20年経つので、そろそろ千春に譲りたい。娘は娘で私にはできない発想でいろいろ取り組んでいます。

産業観光に力を入れたり、錫婚式にも力を入れている」

目を細めていました。

心から千春さんのご活躍をお祈りしています。新たな時代を切り拓いてくれることを大いに期待しています。

 

能作さんは、初めて私と会った際、こうおっしゃいました。

「富山県って面白いところで、県外から来た人を『旅の人』というのです」

能作さんはまさしく「旅の人」であり、「よそ者」です。

福井県出身。もともとは新聞のカメラマンでした。

大阪に赴任している際、鋳物メーカー「能作」の一人娘と知り合い、結婚しました。婿養子になり、鋳物職人への転職です。

1984年のことです。

技術を磨くため、汗を流しながら仕事に没頭しました。

能作さんにとって、忘れられない光景があります。

親子連れが工場見学のため訪れました。

母親は高熱の銅を流し込む作業していた能作さんの存在を気に留めず、息子にこういったのです。

「勉強しないとあんな職業になるのよ」。

その言葉を聞いて、能作さんは唇をかみました。

 

「伝統産業はこんなに低くみられているのか。なんとか盛り返そう」。

能作は下請け工場でしたが、

そのうち、ある思いが募りました。「お客様の顔を見たい」。

それが大きく花開いたのは、食器です。きっかけは、販売員の言葉でした。

「食器を作ってくれませんか」

能作さんは慎重に戦略を練りました。まず素材を何にするか。そこで選んだのは、スズ一〇〇㌫です。

試作品が完成したものの、形にすると曲がってしまう。当初はそれを克服しようとしたが、なかなかうまくいかない。

四苦八苦していた能作さんに対して、あるデザイナーが「曲がるなら、曲げて使えばいいじゃないですか」とアドバイスしました。

能作さんは目から鱗が落ちた思いで、「曲がる器」の商品化に踏み切りました。

「金属は硬いものだ」という常識にとらわれない「曲がる器」の誕生です。

これが大ヒット商品となったのです。消費者にとっては、自分の手で力を加えて、自由自在に形を変えることができる点が魅力となりました。

 

「能作」ではスズそのものの生地の美しさを生かした製品を作っています。ビアカップ、シャンパングラス、タンブラー、盃などである。洒落たイメージで、

消費者に浸透していく。

能作さんは、「伝統は変えてはいけないものだという認識が、そもそも大きな間違いなのです」と話します。

その上で、地元高岡にこだっています。

「私は高岡の地で、育ててもらった。高岡の人に愛され、地域に誇れるものづくりをしなければならない」。

能作さんは「高岡愛」を抱きながら、高岡の外で「外貨」を稼いでいるのです。

こうした経営者こそが、地域の雇用をつくり、

地域の核になります。

「開かれた高岡」を体現しているのが能作さんです。

未来の子どもたちのために、私は閉鎖的な風土を打破したいと思っています。

 

私は以前、能作さんについて、記事を書きました。英語にも翻訳しました。

あえて英語にもこだわったのは、世界にも「開かれた高岡」であるべきだと考えたからです。

 

https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g00805/

 

https://www.nippon.com/en/japan-topics/g00805/how-traditional-metalworker-nousaku-created-a-unique-brand.html