あの1・1地震を振り返る

あの日を忘れません。令和6年1月1日。

時間が経ちましたが、あの日を改めて思い起こします。

 

「高岡市には地震が起きない」。それは根拠のない”安全神話”でした。

今回の能登半島地震で高岡市でも震度5強の地震に見舞われたのです。

私の地元の小学校でも200人ほどの人がかけつけました。

高齢者だけでなく、赤ちゃんを抱いた若い夫婦の姿も目に付きました。

「余震が続き、家にいると怖い」「一人暮らしなので、みんなと一緒にいたい」。

皆さん、口々に不安な思いを話されています。

「落ち着いてください」とも言えず、私はただ皆さま思いを聞きました。

その小学校は1日だけの避難所でした。

私の住んでいる地域はあまり被害が出なかったのですが、

高岡市民が恐怖を味わったのは確かです。

 

令和6年1月1日午後4時10分。

私は神社でご祈祷してもらい、自宅に戻って間もないころでした。

2度目の揺れで家が大きく揺れた際、

つぶれると思いました。

すぐに家を出ました。

近所の人たちも外に出ています。「こんな地震、生涯初めて」。「怖い」

私は民生委員の方と一緒に、自宅の周辺を回りました。

高齢者のお宅には、ブザーを鳴らしました。

私の自宅周辺では、それほど深刻な被害が出ていませんでした。

 

「高岡はやはり地震に強い」と思いました。

しかし、それは、間違いでした。

市内の他の地域では人的被害こそありませんでしたが、

住宅に大きな被害が出ていました。

海に近い地区、伏木に住む支援者から「私の家が沈んでいる」などの悲鳴の声が届いたのです。

さっそく翌日、現場に行くと、私は目を覆いました。

道路に水分を含んだ、泥が湧き出ているのです。

道には大きなき裂が入っています。

多くの家の側溝には泥がたまっています。

さらに、泥が入った家もあります。

男の人が中心に、土を集めて、土嚢に入れていました。

「ドアが傾き開けられない」「家が沈み込んで、車を出せない」。

水が出なくなっていました。このため、高岡市は給水車を配置。ポリタンクを持った

住民が水を求めて行列していました。

液状化現象が起きていたのです。

震源地の能登半島での惨状がテレビでは伝えられていましたが、

液状化については、あまり伝えられなかったのです。

 

Previous article

内水氾濫に新制度 高岡市に期待