半藤一利さんから学んだ「終戦」

私は去年までテレビ局の報道デスクとして仕事をしていました。

この時期になれば、いつも議論するのは、終戦に関する報道をどのぐらいの分量でするのかどうかでした。

正直、終戦関連の報道は視聴率が取れません。多くのテレビマンはなるべくやらないほうがいいというスタンスでした。

しかし、私はできるだけ多くの時間を割くべきだと主張していました。

人間魚雷、沖縄戦、原発投下など、朝の番組でも多くの企画を放送しました。

報道記者としてやはり、戦争の記憶を風化させてはいけないと思っていたからです。

私に戦争を伝えることの重要性を教えてくれたのは、去年亡くなった、戦後史を研究する作家、半藤一利さんです。

幕末や戦後など数々の著作を読ませていただきましたが、ご自宅に訪れた際の言葉が印象に残っています。

「鈴木貫太郎さんが総理大臣でなかったら、本土決戦をやり、あなたもこの世にはいないでしょう」。

ドキッとする言葉を半藤さんは放ちました。

つまり、私は昭和39年生まれですが、父や母が殺されていたというのです。

「万が一、本土決戦になったら、アメリカ軍はとりあえず、鹿児島に上陸し、それから昭和21年の春には九十九里浜に上陸する作戦計画を練っていました。

日本は対岸線の長い所ですから、どこからでも上陸作戦出来る。本気になって本土決戦なんてやったら、今私たちみんな生きていません」。

第2次世界大戦での死者は300万人と言われていますが、本土決戦ならば、その数は一ケタ跳ね上がります。数千万人規模だったそうです。

日本民族が消滅の危機にあったのです。

アメリカ軍は本気だったのです。九州南部への上陸作戦はオリンピック作戦と呼ばれ、昭和20年11月1日が作戦予定日でした。

その兵力は、世界の歴史でも最も規模の大きな海上部隊でした。空母は42隻、戦艦は24隻です。駆逐艦に至ると、実に400隻以上だったのです。

さらに、陸上部隊も14個師団の参加が予定されていました。日本人を皆殺しにするほどの戦力だったのです。

一方、迎え撃つ日本側。貧困な「兵力」でした。男子15歳から60歳、女子17歳から40歳までが義勇兵として戦闘に参加する予定でした。

召集を拒否することは許されず、逃亡した場合、処罰されます。巨大なアメリカ軍の兵力に対し、日本政府は、素人の国民2600万人をかき集めようとしていたのです。

当時ちょうど15歳だった半藤さんはこんな話もしてくれました。

「私たち少年たちが軍から言われたのは、敵の戦車が来るときに、穴掘って爆弾を身につけて、そこに潜めということです。戦車が上を通る時に爆薬を付けて、一緒に爆発することです」。

15歳の少年に自爆しろという命令だったのです。「イスラム国」の自爆テロが思い出されますよね。

「一億総玉砕」「一億特攻」「神州不滅」というスローガンが現実味を帯びていたのです。

さらに、アメリカ軍は第3の原爆を落とす準備を進めており、

実行予定日は8月17日だったという報道もあります。

それが事実ならば、8月15日のポツダム宣言受け入れはぎりぎりの

タイミングだったと言えます。

半藤さんは、その最大の立役者として、鈴木貫太郎を挙げます。終戦時の総理大臣です。

「この人は昭和天皇と阿吽の呼吸だったのです。昭和天皇の侍従長もやっており、天皇の気持ちもわかるし、天皇は鈴木貫太郎さんの気持ちもわかります。

終戦という、最後の決断。御前会議で決着しないので、鈴木貫太郎が天皇陛下に頼むわけですが、本人は後で『あれは全くの憲法違反で、

俺は死刑にされてもしょうがないんだ』と言ったぐらいの大決断で天皇陛下にお願いをします。

天皇陛下はそれを承知して、戦争を止めると御前会議で言うわけです。阿吽の呼吸の最後のドラマです。よく戦争があそこで終わってくれました。

その意味では大変大きなお仕事をお二人が協力してやった」。

鈴木貫太郎と言えば、もともと海軍大将。

昭和天皇の侍従長時代、2・26事件で4発の銃弾を受けたが、奇跡的に蘇りました。

この鈴木貫太郎が終戦の時の総理となったのです。

私は戦争を知らない世代ですが、半藤さんらからさまざまな教示を受けました。

最も尊敬する政治家として、鈴木貫太郎を挙げるにようになったのも、

半藤さんの導きがあったからこそです。

半藤さん亡き後、今後は私たちが後の世代に戦争について伝えるがあります。

それも政治家としての大事な仕事だと思います。

 

 

 

 

8月2日 成年後見人制度についてレク。後援会打ち合わせ

3日 決算審査特別委員会研修

4日 成人後見人制度で関係者打ち合わせ、自民党関係者との打ち合わせ

5日、高岡愛オンライン打ち合わせ

6日、関係者オンライン打ち合わせ