広島原爆投下で思う決断の政治

79年前のきょう、広島に原爆が落とされました。

広島の原爆の犠牲者は14万人。なぜこんなこんなに多くの人が犠牲になったのか。

その時、いったい日本政府内ではどのような認識だったのか。

私は、記者時代、ささまざな文献を読んだり、ノンフィクション作家の半藤一利さんの話を聞きながら、

当時を検証しました。

原爆投下とソ連参戦。

このダブルパンチで、日本はポツダム宣言を受け入れたのです。

ポツダム宣言、受け入れ。現代史で最も困難な政治決断。それを断行したのが

鈴木貫太郎総理です。

政治家になって今、改めて状況判断の大事さを

痛感しています。そして政治家は何より、国民を守らなければならないのです。

鈴木貫太郎が終戦への決断した様子が読み取れます。

 

 

この間、アメリカ軍による空爆は一段と激しくなった。決定的だったのは、アメリカ軍が八月六日に広島へ原爆を投下したことだ。

日本政府は当初、原爆だという認識はなかった。これまでに見られないぐらい新型爆弾とみていただけだった。

翌七日午前三時、迫水書記官長は同盟通信の長谷川才次からの電話で起きた。

「トルーマン大統領が広島に投下したのは原爆だったと言っている」

長谷川がサンフランシスコ放送を傍受したところ、アメリカが開発した原爆の第一号が広島に投下されたという。

迫水は愕然とした。今回の戦争で、いずれかの国が原爆を実用化できれば、その国が戦争を勝利すると考えていたからだ。(迫水P263)日本の専門家の間でも原爆の原理については研究していたが、いかに、アメリカでも、数年のうちに完成できないだろうとみられていた。

しかし、大統領のトルーマンは、巨額の資金を投じて、原爆開発に全力を投入していたのだ。原爆投下を明らかにした声明の中で、トルーマンは日本に対し、原爆が実用化されたのだから、日本がとるべき道は一つしなかと主張し、ポツダム宣言の受け入れを呼びかけたのだ。

翌七日の閣議では、この爆弾について、討議した。東郷外務大臣は「スイス公使館や万国赤十字などを通じ、このような残酷な兵器を用いることは、毒ガスの使用を禁じている国際公法の精神に反する」として、厳重抗議するよう求めた。ほかの閣僚の間では、このような爆弾が投下された以上、日本政府はポツダム宣言を受け入れるべきだという意見も飛び出した。

しかし、阿南陸相は「原子爆弾と決めてかかるのは、きわめて早計である。あるいは敵の詐術かもしれぬ。この際は確実に実地を調査してから方針を定めるべきものである」と受け入れ反対の姿勢を鮮明にした。

迫水は七日に、原子爆弾の真偽をたしかめるべく陸海軍の科学者を広島に派遣した。仁科博士は八日に調査を終え、夕刻に書記官長室を訪れた。

「まさに原子爆弾に相違ありません。私ども科学者が至らなかったことは、まことに国家に対して申しわけのないことです」と、頭を下げた。

この仁科博士の調査結果を聞いた貫太郎は、今更ながらその威力に慄然を感じた。そして、迫水に命じた。

「いよいよ時期がきたと思うから、明日九日、最高戦争指導会議と、閣議を開いて正式に終戦のことを討議するよう準備してほしい」。

昭和天皇も侍従に対し、広島の惨状を踏まえれば、これ以上勝ち目のない戦争を続けるのは困難だと語ったという。

迫水は、鈴木総理の指令を受けて、九日午前二時ごろまで最高戦争指導会議と閣議の準備に追われた。

極度の緊張と疲労に襲われた迫水。やっとベッドでまどろみかけた午前三時ごろ、一本の電話で飛び起きた。相手は、同盟通信外報部長の長谷川才次だった。

その内容は眠気を吹き飛ばすものだった。サンフランシスコ放送によると、ソ連が対日宣戦を布告したという。

「本当なのか、本当なのか。長谷川君、電報を読み間違えていないかい」。迫水は大声を発した。怒りで全身の血が逆流したのだ。

原爆投下でも、ポツダム宣言受託に踏み切れなかった日本政府にとって、このソ連参戦は決定打になったという。

そもそも、日本は昭和一六年四月に日ソ中立条約を結び、その期限は二一年三月までとなっている。

ソ連は当初、ドイツと戦争しており、極東で、日本と対峙したくなかった。一方、対米開戦に踏み切った日本も、ソ連とコトを構えたくなかった。両者の利害が一定したのだ。日本はアメリカ条約締結後、この条約を忠実に守った。