甲子園あと一歩の元球児、地元企業を再生

 

高校野球の富山大会が佳境を迎えています。

ベスト4が出そろいました。

我が母校、高岡高校はすでに敗退しました。

進学校だけに、甲子園とは蚊帳の外というイメージがありますが、

1度だけ甲子園出場あと一歩というときがありました。

65年前の1957年です。

その時のピッチャーが板谷勝義さん(83)です。

板谷さんは今も、高岡の経済界では伝説の人です。

経営不振の企業の再生を実現した、経営再生プロだからです。

その企業再生の話はあとでしますが、

65年前に話を戻しましょう。

当時は、北陸三県で一校だけが出場できました。

高岡高校は、富山県代表となり、福井の三国高校と優勝戦。

ゼロ対1で、惜しくも敗北しました。

板谷さんはこの試合まで完璧な投球で、相手打線を封じ込めていた。

富山県の高校野球では断トツのピッチャーでした。

1957年8月3日。

得意のカーブや速球で毎回打者を凡退させていたが、

2回。ヒットを打たれ、その後のスクイズで1点を許した。

それが、決定打となった。

「野球少年の夢もここで一区切りついた。富山県内の就職先を探した」。

 

板谷さんはもともと、「六大学に入って神宮球場のマウンドに立ち、大学卒業後は商社に働く」ことが

目標でした。ところがさまざな事情から、大学進学をあきらめ、

甲子園のマウンドに立つことが目標となったのです。

その目標も結局、三国高校に負け、あきらめたのです。

 

その板谷さん、地元に残り、日本ゼオンに入社。

その後、北興というゼオンの関係の会社に出向、社長に就任しました。

借金が40億円もあり、危機的状況だったのですが、板谷さんがトップセールスで

官公庁の大型物件の設備投資などの受注に力を注ぎました。

そして危機を克服。率先垂範の姿勢でした。社長が働けば、部長も働き、社員も動くというのが

板谷流の姿勢です。借金も数年で片づけたというのです。

北興は、ゼオンノースと社名を変更。今では従業員250人の企業になっています。

ふと思います。

板谷さんが大学に進学し、大手商社に入っていたら、

ゼオンノースの再生もなかったかもしれません。

地元に残って仕事をする。

その重要性を痛感します。

 

21日、会派室で事務手続き、公共料金などさまざまな支払いなど、サリーズでランニング

22日、地元で市政報告配り、旧平米小学校の草むしりで山崎さんや酒井さんらと打ち合わせ

23日、後援会総会、中学時代の友達と会合

24日、朝市、ジョギング、殺虫剤散布、渡辺県議会議長のパーティー、小林デジタル副大臣と意見交換、自治会での打ち合わせ

25日、教育委員会にコロナの感染で問い合わせ、子ども食堂の広報関連、鍋田さと打ち合わせ

 

 

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