富山マラソンと私
きのう、「SALLYS RUNNING CLUB」に入会しました。
これから、火曜日の夜は、こちらでメンバーの方々と一緒に走ります。
本格的にマラソンについて学びます。
今秋の富山マラソンに出るからです。
目標は、5年前の記録(4時間55分)を上回ることです。
去年1年間の選挙で、体はなまっています。
お腹もぽっこり。
「走る」「読む」「書く」。
原点を見つめ、もう一度鍛えなおします。.
富山マラソンに向けて、体と気持ちを入れ替える。
その意味で5年前の北日本新聞の原稿を掲載します。
当時私は「現場発 ジャーナリストが見た地方創生」という連載を持っていました。
その時の原稿が以下です。
富山マラソンとわたし
「正面突破」の精神
人生には雨の日も
冷たい雨の中、全身がびしょ濡れになった。ところが、沿道からの声援を受けて走っていると、心も体も熱くなる。応援する人との一体感をぞんぶんに味わった。新湊大橋を超えたあたりから明らかにペースは落ちたが、記録は4時間55分05秒だった。去年の記録を大幅に上回り、自分なりに満足している。
今回走りながら、改めてマラソンの魅力を考えた。自分よりも速いペースで追い越す人もいれば、途中歩く人もいる。またある人は途中で止まり、屈伸運動をする。速く走る人を羨んでもしょうがない。人はそれぞれペースが違う。それはまさに、人間社会のようだ。それに晴れの日だけではない。人生には雨の日もある。
初めてフルラソンに挑戦したのは、去年の富山マラソン。その後、私は勝手に、マラソンは人生とは切り離せない存在と考える。
マラソンで頼みの綱は、己の体力である。普段からの鍛錬は不可欠だ。号砲が鳴ると、あとは孤独な闘い。体力、気力の限界への挑戦だ。「正面突破」の精神しかない。誰も助けてくれない。己の能力を磨き、壁を打ち破るしかない。
振り返れば、私が最初に「正面突破」を試みたのは、高校受験だった。どうしても高岡高校に行きたかった。しかし、進学できるのは、当時の中学で上位20人ほど。せいぜいで60番ほどの私にとっては、無謀な賭けだった。前日まで勉強して桜が咲いた。
高岡高校では、生徒会長、ラグビー部、応援団と、勉強以外のことばかりに熱中した。結果的に成績は最下位近辺だ。しかし、志望校は早稲田大学だけ。きっかけは一歳年上の女性の言葉だった。彼女が早稲田の近くの女子大に進学し、「早稲田があなたを待ってます」と手紙をくれたからだ。私は早稲田のほぼすべての学部を受験したが、全滅だった。そして、一浪。猛勉強した。早稲田を中心に次々に不合格となったが、最後に早稲田大学政経学部が振り向いてくれた。
合格の翌日、彼女に思いを告白しようとして会った。「おめでとう」の笑顔の後に、彼女の口から飛び出したのは、彼氏の話題だった。ずっと聞き役に徹した。結局気持ちを伝えられずに、夜空を見ながら、涙が流れた。
大学生活では、ラグビーのサークルに身を置きながら、もっぱら関心事は世界だった。作家、沢木耕太郎の「深夜特急」に憧れ、一人で放浪の旅に出た。3カ月かけてインドからギリシャまでバスや列車の陸路で旅行したり、同じく中国大陸を1カ月以上彷徨ったりした。バブル期で豊かな日本との違いに驚き、戦争や貧困、差別の問題などを必死に考えた。
就職先として目指したのは、新聞社だった。しかし、4年生で受けたマスコミは全滅。就職浪人しても、思いは叶わなかった。そして、一般企業に半年身を置きながら、再び狙った。唯一の吉報は、時事通信の補欠合格だった。それから入社までの間、半年近くロンドンに生活し、ベルリンの壁崩壊の現場に立ち寄った。
それから28年たつ。「正面突破」を胸に刻んで、仕事をしてきたつもりだ。
「日本1の経済ジャーナリストになろう」。「政治経済中心の史上最強の報道番組を作ろう」。「震災後の日本人の生き方を示唆する本を書きたい」。様々なことを目論んだ。非才だけに、うまくいかなかったことが圧倒的に多いが、時たま少しだけ成功した。挫けずに前を向いて前進するしかない。それを痛感した職業人生だった。
テレビ局に勤務しながら、最近では、地方創生の現場を取材し、本紙や総合雑誌に連載させていただいている。東京だけでなく、地域の課題も見えてきた。先月53歳になった。今はやりの「人生100年時代」を踏まえれば、まだ半分程度だ。ジャーナリスト、いや職業人として、今後、どんな壁を「正面突破」し、どこに“砲弾”を撃ち込むべきか。
郷里で冷たい雨に打たれ走りながら、来年上梓する地方創生の本の構想に思いを巡らせた。
主な行動
25日 市民の方々と会う
26日 議会の質問考える、会派説明
27日 高岡ライオンズ、代表者会議、岩坪の工業団地の方々と会合
28日 高陵小学校の運動会
29日 自民党政経文化セミナー